22世紀 ~柱の陰で覗く者を柱の陰で覗く自由~

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お早うございます!

コンサルします。

私がセミナーでお伝えする根幹の部分の一つです。

私は常に

「『哲学とお金』については、

学び始めるに早過ぎるということはない」

とお伝えしています。

【以下本文】

このような間違いを犯す者が学習出来ていないことは、

「いつも自分は選ぶ側だと思っている。」

ことである。

私を含め

「人は皆選ぶ側と同時に選ばれる側にも立っている」

ことを知っておかねばならない。

それは

「選ばれない可能性」

でもあることを覚悟しておかねばならない。

「自由の均衡」

について洞察が深ければ深い程、

人を舐めることが出来なくなる。

「腰の低い人」に対し「底知れぬ恐怖」を感じるようになる。

これは「哲学」である。


「学問」は「知識」であり、

「哲学」は「知恵」である。

「知識」は「個」の財産であり、

「知恵」は「社会」の財産である。

「個」の財産に求められるのは

「創造力=発想力」であり、

「社会」の財産に求められるのは

「想像力=想いを馳せる力=思い遣る心の成熟度」である。


「創造力」とは「0から1を産み出す力」であり、

ロジカルで概要も数値的に表現出来る。

それは知恵の輪やパズルで身につけることが出来、

一見バラバラとした存在が、

実はバネ型の立体スパイラル上に並んでいたことに気付き、

それら全てがたった一つの数式で見事に表現出来ることを発見した時のような

明確な解決を見出せる世界である。

明確な解決に向かう可能性を信じることが出来ることは励(はげ)みになり、

明確な解決を導き出した暁の達成感はまさに学問の醍醐味と言えよう。


「想像力」とは

「人類長年の経験値を踏まえた上でより高み(又は底辺)を目指す志」であり、

先人の経験値(経験談を聞いたり伝聞すること)無しには

スタートすら出来ない。

人の経験を聞くのに人を敬(うやま)うことを知っていなければならない。

どんなに若くともここまで既に一人で生き延びてきたのではない、

ということには早々に気付かなくてはならない。

「高みを目指すべき」という言い分を絶対的に裏付ける理論はあるのか?

またそれは本当に正論なのか?

「正しい」とはどういうことなのか?

考え方のアルゴリズム上にある分岐点での選択肢に正解は一つなのか?

「何だ、私はな~んにも知らないではないか!」

などと考えている自分自身は正しい判断が出来る人間なのか?

3歳からの記憶はあるが、

あの時の自分とはほぼ全ての細胞が入れ替わった私はもはや別人ではないのか?

身体も大きくなりこれを成長と呼ぶが、

脳(考え方)はむしろ劣化していないか?

こんな下らないことを考えている私とは一体誰なのか?

こんな下らないことしか考えられない私に生きる価値があるのか?!・・・


如何だろう、どこかに明確な解決の可能性は見出せただろうか?


「哲学」は、

生きる上で避けられない「存在」という地に立ち、

標(しるべ)無き道を行き、

時に荒れ地に自らの轍(わだち)を残しながら、

後世への遺産として人類の歩むべきロードマップを創り上げる作業である。

次世代とて頂(いただき)を見ることはない。

だから幼少の頃からその存在を知り、

探求を始めるべきだと説いているのである。

「如何(いか)に生きるべきか?」の答えを自分なりに導き出し、

「他の誰でもない私」という軸のブレない人間を構築出来た時、

「まだまだ課題はあれど自分としてはやりきった。」

という人生の集大成としての達成感があり、

これこそが社会と交わる実体験無しには成し遂げられない

「哲学」の醍醐味である。

生まれ来る世界の宝達に、この果てしない旅の道中

「生きる意味」や

「果てしないが故に見ることが出来る無限の夢」

を見つけることが出来るよう、

善きにも悪しきにも実在した物語を

経験という臨場感を以って語り継ぐのは

私達や最も身近な親御さん達の義務である。

間違っても「社会悪製造機」になどなってはならない。


誤解の始まりは拙(つたな)い口であることが多い。

だから怒りも悲しみも喜びも悲しみも知っている者は、

あらゆる可能性を鑑(かんが)みる為一旦考えてから話し、

余計なことは喋らないのである。

これも一つの「想像力から導き出された知恵」である。


社会に向けて発信するメッセージは、

「自身が社会を構成する一員である自覚」

を根本としなければならない。

SNS は全て実名公開で一名1アカウント、

居所は公開しないがサイト側で確認出来た者のみ、

という条件にすべきである。

実名公開に否定的な者は、

社会を自身の蚊帳(かや)の外の存在として見下ろし、

「どこの誰だか分からぬ者がああだこうだと主張する違和感や気持ち悪さ」

に想像が至らぬ社会の構成員として自覚が足りない者であり、

社会にはそれを受け付けない権利があることを主張せねばならない。

「自覚」と「責任」が担保出来る者に与えられるわがままを

「自由」と呼ぶことを世界共通公理として再認識する必要がある。

余談

今後社会で雇用される権利や応募する自由もあるが、

企業(社会)側にも本音はこの社会悪を行なったことで

人間性(性根)に信用がおけないからであっても、

「残念ながら今回は採用を見送らせて頂きます。

貴殿の今後の御活躍を心よりお祈り申し上げます。」

と理由を明かさず断り続ける自由と権利があることは覚悟せねばならない。

また、もし当該教師が職を追われた場合、

その家族、親戚一同から常に監視され、

あらゆる幸せを得ることに対し偶然を装った妨害行為による被害に遭うことも、

犯罪として立件出来ない限り

自由な権利として行使され続ける可能性も覚悟せねばならない。


(自由を振りかざす個人) SNS で炎上させようぜ!

(自由を行使する社会)  望み通りになったな、お前が・・・


※ 関与したのが3人であること、学校名、クラス名、

    そしてそれぞれの実名と顔写真がネットにアップされていました。

    理性を以って繕った発言をするなら「行き過ぎ」でしょう。しかし、

    当事者に近しい方達の発言による裏付けや、

    メディア取材とメディア報道の及ばない複数の関連投稿を読む限り、

    親子揃って未だ被害者意識しかなく、

    当該教師に厳罰を望んでいることを加味すると、

    「市民感情/国民目線」としては、

    「どこの誰だ?!」、「お前らこそ厳罰に!!」

    と思ってしまうのは致し方ないかなと感じました。

【本文以上】

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2019.01.29. (Tue.)

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