22世紀 ~愛知県立瑞陵高等学校(旧愛知県立第五中学校)普通科卒~

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瑞穂が丘は緩い登り坂の上に位置するのどかな住宅街である。

瑞穂区役所の角を西へ更に緩い坂を上りきると瑞陵高等学校がある。

南向きの広いアプローチは、

合格発表で初めて見た佇(たたず)まいそのままの姿で今もそびえ立っている。

卒業生としてあの時と同じ門をくぐると、

この学校や先生方、そして在校生達の栄養分として

何ら寄与していない自分の小ささを大いに感じる。

想えば・・・

入学当時は厚みが10センチもある古文辞典を買い込み、

帰宅するバスの中で広げては、全く読んでいないのに

「わたくし、瑞陵ですが何か?」

みたいなプライドだけはいっちょ前で、

どう見られてるかだけを意識しながら生きていた時期だった。

袖に5つボタンの長ラン、ツータックのバギーは

中村区の「Oカベ」でオーダーして作った。

トッキトキのヨーロピは新瑞橋の「〇トミ」で調達、

アイパー中分けで毎朝三面鏡に

「俺、カッコいい?」

などとタワケな問いかけをしながら、

前後左右どこから見ても完璧になる迄家を出ない毎日だった。

「THE BEATLES」だけは教授の如く語りつつも、

 

同じクラスの「Mノ君」が大人しいのにベースがやたら上手い、

との評判だったので文化祭のバンドを見に行ったら、

ディープパープルのハイウェイスターをやたら上手く演奏していて、

ギターソロの16連も完コピで思わず「イェー!」と叫び、

不良グループの「Kトウ」がポリスのメッセージインナボトルを

これまたカッコ良くパフォーマンス、最後に

応援のお付き合いで見に行ったつもりだった女子バンドが、

パットベネターのハートブレイカーを

オリジナルばりのパンチで聴かせてくれてからというもの、

すっかり私のハートはブレイクどころか火がついてしまい、

ここから70年代80年代のロッカー達に引きずり込まれていくことになった。

※ 私の最高位ロッカー

「ブルース・スプリングスティーン アンド ジ・イーストリートバンド」

「俺は走り続けるため生まれてきたんだ!」と歌う「ボーン トゥ ラン(1975年)」

に今なお血湧き肉躍る。

 

脚を怪我しながらも地区ブロック優勝していたテニスだけは自慢出来、

「俺テニスなら負けん。」

などと全国レベルには程遠いことを認識しつつも、

自分の存在意義を無理やり見出すタネに、謂わば心の支えにしていた。

「睡眠グクラブ」として授業の9割を居眠りしながら

3年間を過ごしたここでは確かに埃(ほこり)のような存在だった。

ただ、この時期の「カッコいい!」と「女にモテたい!」という

不純な動機で始めた音楽とテニスに今事業として携わっていることには

当時の自分にとって何も意義がなかったとは思えないでいることは確かだ。

 

瑞陵の前身は愛知県立第五中学校迄遡(さかのぼ)る。

 

明治40年(1907年)に設立されてから、はるか昔には

江戸川乱歩(らんぽ)も杉原千畝(せんぽ : 本名ちうね)もこの門をくぐり、

共に早稲田に進み偉人への道を進んだことに想いを馳せ、

さも自分が同等な立ち位置で二人のブランドを

単なる先輩としてまとっているかのような語り口は許されるのか?

それは

「埃が誇りに思う」という

「鼻くそが我がごとのように大仏を語る」

に等しく、はばかられて然るべきことかもしれないが、

優秀な卒業生からの知らせで今回の事業を知るに至り

無性に訪ねてみたくなりオープン初日に足の赴くまま母校を訪れたものである。

内に一歩入ると小休憩所の作りになっており、

周囲に千畝に関する記念碑やモニュメントが点在していた。

 

 

大村愛知県知事がこのような記念の礎(いしずえ)を

母校に建立して下さったことは心から感謝申し上げたい。

さて!

次は我々が学び、引き継ぎ、次世代に繋ぐ番である。

 

組織トップは理念を掲げ言葉にせねばならない。

クレドの作成が済んだら自身の中で即時引退すべきである。

自分が間違った方向へと軸がブレていく可能性を見越して。

魂が叫んだり天にも昇る喜びを繰り返す中で、

自身の中にあった当時のピュアで真っ白な天秤は、

釣り合っている状態がもはやフエアな状態ではない

錆びついたものへといつの間にか差し換えられ、

たった一円だったほんの出来心の私欲がもはや一億円に膨れ上がり

自分ではどうにもせき止められなくなっている人間としてごく自然な

煩悩のダム湖を手前のどこかで誰かに空っケツに枯渇(こかつ)して貰う為に。

案ずるなかれ、全ての疑問はクレドが答える。

全社員は経営者に聞くなかれ、クレドに訊け。

 

千畝は「国という組織」に於いてはルールを無視した懲戒解雇対象人物だった。

組織内で「間違った奴」とレッテルを貼られた者が、

「世界という超国家」に於いては称賛され今や偉人である。

人間は何度繰り返すのだろう?

小さな組織内ルールは、常に全世界のルールに照らし合わせて

作成されなければならないことに気付かない失態を。

秀でた者を敢えて評価することを拒み、

じわじわと追い込んで叩き潰し亡き者にした後、

絶賛する自己優位追求型の生き方しか出来ない価値観の植樹を。

 

私は神?父?母?我が子?偉人?に常に見守られている。

逆に言えば見張られている。

こんな時私には神の声が聴こえるだろうか?と自問自答すべきである。

 

「難民達の内にいた憔悴(しょうすい)する子供の姿に目をとめたとき、

『町のかどで、飢えて、息も絶えようとする幼な子の命のために、

主にむかって両手をあげよ~旧約の預言者エレミヤの 哀歌~』が突然心に浮かんだ。」

~1940年頃 杉原千畝~

 

「実際には、日本政府の許可なしであったことを私たちが知ったのは、

1969年に杉原氏とイスラエルで再会した時である。

杉原氏が訓命に背いてまで、ビザを出し続けてくれたなんてことは、

再会するまで考えられなかったので、とても驚いたことを覚えている。

杉原氏の免官は疑問である。

日本政府がすばらしい方に対して何もしていないことに疑問を感じる。

賞を出していないのはおかしい。表彰していないのは残念である。

杉原氏を支持している方は多くいるが、私は20年前から、

日本政府は正式な形で杉原氏の名誉を回復すべきだといっている。

しかし日本政府は何もしていない。大変残念なことである。

~1998年05 月25日 ゾラフ・バルハフティク(イスラエル宗教大臣)~」

 

「これまでに外務省と故杉原氏の御家族の皆様との間で、

色々御無礼があったこと、御名誉にかかわる意思の疎通が欠けていた点を、

外務大臣として、この機会に心からお詫び申しあげたいと存じます。

日本外交に携わる責任者として、外交政策の決定においては、

いかなる場合も、人道的な考慮は最も基本的な、

また最も重要なことであると常々私は感じております。

故杉原氏は今から六十年前に、ナチスによるユダヤ人迫害という

極限的な局面において人道的かつ勇気のある判断をされることで、

人道的考慮の大切さを示されました。私は、

このような素晴らしい先輩を持つことができたことを誇りに思う次第です。

~2000年10月10日 河野洋平(当時外務大臣)~」

 

千畝の轍(わだち)をたどり乍(なが)ら、

以前から提唱し続けてきた私の軸を確信し、

更なる高みへの伸びしろの存在に気付き、またそれを目指すことを誓う。

1.「世界共通公理(世界ルール)」

これが必要なことはもはや疑いの余地はない。

 

2.「組織とは法人という人也(なり)」

組織もまた同族的、独善的ルールに先んじて先ず人であれ。

 

3.「偉大な功績は存命の内に正当に評価せよ」

抜きんでた成果をほどほどに叩く圧力志向から脱却する人類進化を目指せ。

※ 2018年現在の感喜堂

※ 卒業(1982年)当時の感喜堂の看板

 

編集後記

「私のような者が『我が瑞陵、我が先輩』と呼ばせて頂けたなら幸せです。」

 

語部=Court remembrancer ~”TOMMY MURAKAMI~

https://www.youtube.com/watch?v=2hZUSaB0LWk

 

2018.10.15. (Mon.)

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